【蔵元インタビュー】大矢孝酒造 大矢 俊介さん 第1回


大矢孝酒造(おおやたかししゅぞう):文政13年(1830年)創業。現在の蔵元・大矢俊介さんは八代目。さわやかで飲み口の良い「残草蓬莱(ざるそうほうらい)」と、生酛仕込みで味わいしっかり、お燗で呑みたい「昇龍蓬莱(しょうりゅうほうらい)」の2シリーズを醸す。平成29年9月現在41歳と酒造業界では “若手” と呼ばれる世代だが、経営者としては既に15年以上の時が流れた。  神奈川県愛甲郡愛川町田代521 TEL:046-281-0028 http://www.hourai.jp/

大矢孝酒造

-おおやたかししゅぞう-

 

文政13年(1830年)創業。現在の蔵元・大矢俊介さんは八代目。さわやかで飲み口の良い「残草蓬莱(ざるそうほうらい)」と、生酛仕込みで味わいしっかり、お燗で呑みたい「昇龍蓬莱(しょうりゅうほうらい)」の2シリーズを醸す。

 

平成29年9月現在41歳と酒造業界では “若手” と呼ばれる世代だが、経営者としては既に15年以上の時が流れた。

 

神奈川県愛甲郡愛川町田代521

TEL:046-281-0028 http://www.hourai.jp/



【第1回】H29.9.26UP

 

神奈川県愛甲郡愛川町で創業から187年間、日本酒を醸し続ける「大矢孝酒造」。平成29年9月に行った、八代目蔵元・大矢俊介さんへのインタビューを3回に分けてアップします。

 

平成12年。先代が倒れてしまったため、当時社会人2年目だった俊介さんは急遽、蔵に戻ることを決意しました。

 

特集の第1回目は蔵に戻った“若手”蔵元の大矢俊介さんが普通酒製造から純米酒製造へ、杜氏制から社員雇用へと舵を切っていく模様をお伝えします。


替えようとしたのではなく替わっちゃったんです

 

平成12年に蔵に帰ったときは、製造するお酒の約65%が普通酒、25%が本醸造酒で、5%が大吟醸酒と吟醸酒、残りの5%が純米酒という比率でした。

 

そこから地元の酒販店や飲食店さんがポロポロとなくなっていき、“ど定番”だった普通酒の売上がどんどん減った。逆に純米酒が伸びていって、平成20年には普通酒が5%になっています。

 

――― 完全に逆転したのですね。

 

そうなんですよ。でもこれ、替えようとしたのではなく替わっちゃったんです。純米酒、純米吟醸、純米大吟醸で全体の95%になりました。8年でこんなに替わってしまった! 

 

――― 俊介さんがリーダーシップを発揮して替えたわけではなかった?

 

市場です。普通酒が利益の出るものだとしたら造り続けるべきでしょう。でも市場では、低価格帯の普通酒は「パック酒」に駆逐されていった。そうなると中小の蔵は本醸造酒を含めて特定名称酒に振っていくしか生き方がない。替わらざるを得なかったんです。

 

――― そして完全に純米酒だけに切り替えた。

 

売上が伸びて5%になったのではなく下がっての5%なので、放っておけばゼロになる。だから「もう普通酒は造らなくてもいい」と判断しました。売れるものを増やして、売れにくいものを減らしていった結果、純米酒だけになったということです。平成21年の造りから完全に切り替えました。


自分で見たり、香りだったり感触だったり・・・やっていかないと育たない

 

――― 時代の流れとはいえ、これほどの転換をするには意志と覚悟が必要かと思います。

 

当然、継いだばかりのときは明確な方向性を持ってはいませんでした。ただ「家業だから継ぎました」というところですから。そこで業界の人との出会いや、今までの自分の経験を基にその方向性を見定めていくわけです。

 

そんな中、蔵を継いで1年くらいですかね。神亀酒造の小川原さんとの出会いがありました。今年の4月23日に亡くなってしまったのですが、お酒造りのことはもちろん、「蔵元とは」「従業員雇い入れの心得」など色々なことを教えていただきました。多分、言ってる本人はそんなに(教えている意識は)なかったと思うんですけどね(笑)。

 

まだ普通酒ばかり造っているときに、純米酒かつ熟成酒、燗酒のすばらしさをとくと教えていただいて。「私もそういうお酒を造ってみよう、そういうふうにしていこう!」と思った。小川原さんにはすごくお世話になりました。

 

――― 蔵で働かれる蔵人さんについては何か変化がありましたか。

 

杜氏制度は平成18年からなくなってしまいました。親方(杜氏)の最後の造りが17年で、その後は出稼ぎの方がゼロになってしまって。継いだ当時は杜氏が1人と蔵人が4人いたのですが、この蔵人がどんどん減っていったんですよね。3人、2人、1人と。

 

――― 杜氏さんが連れて来られるんですよね。それでも減っちゃうのですか!?

 

そう。人が集まらない。出稼ぎ自体が今の生活スタイルに合わないんですよ。家を半年空けてまでは来ない。「悪いけど3人になっちゃったから、ちょっと手伝ってよ」って親方に言われて。「そうですねー」なんて言って私が入りだした(笑)。さらに1人いなくなり社員を導入して、また1人いなくなって社員を導入して。結局、親方もいなくなったところで私を含め社員4人でお酒造りを始めました。平成18年からですね。

 

――― 俊介さんが杜氏として。

 

はい。平成23年まで私が製造責任者、杜氏としてやりました。それからほかの蔵で製造をやっていた社員が新しく入ったので、うちの造り方を教えながら彼主体で製造をし始めた。私が企画して彼が造る。設計者と大工さんみたいな感じですね。で、彼はうちで5年働いて離れました。まあ「次のところへいきまーす」「いってきなー」なんて感じですね。

 

――― けっこう軽い感じで(笑)。では昨年(平成28年)の造りからは再び、俊介さんが先頭に立って。

 

そうですね。ただ、ひとりが率先して全部やるのは何かあると危ない。だから酒造りに関しては私が計画・手配はしますが、現場はなるべく私の指示なしで動けるようにしています。その方がみんなもやりがいありますし、「これ何度、あれ何度」と言われてやっているだけでは機械と変わらない。

 

そこは人間ですから自分で見たり、香りだったり感触だったり・・・やっていかないと育たないです。仕事はなるべく任せて、あとは経過を見ていれば進んでいるか、遅れているかはわかります。明らかに違う方向に進んでいたら「こっちじゃない?」とアドバイスするくらいがいい。

 

――― 俊介さんが初めて杜氏となった18年頃からそういうスタンスだったんですか?

 

その頃はやはり自分で「やらなきゃ、やらなきゃ」っていう気持ちが強かった。「これ何度? あれ何度? これどうやってる!?」なんて色々やってました。まあ歳とともに変わるということじゃないですか?(笑)