蔵に戻った当時「危機感しかなかった」橋場さん。酒の流通システムが大きく変わっていく時代、現状打破のために打ち出したのが「地元農家との酒米共同栽培」という方向性でした。
今でこそ「栽培醸造蔵」として広く認知される泉橋酒造ですが、そこに至る道のりは代かき後の田んぼのように平らなものではなかったようです。
◆蔵元インタビューの掲載予定
【第2回】「栽培醸造蔵への道」2018.7.28UP
“窓” を開けた、若き蔵元
ーーー 困難な状況の中、「酒造りは米作りから」を目指すようになったキッカケは?
実家に戻ってきた平成7年(1995年)に、お米の流通を規制していた「食糧管理法」が廃止となります。そのため農家さんや地元の農協から直接購入可能となり、また自分の家のお米でも酒が造れる状態になりました。
それからこの年は「ウインドウズ95」が出た年で、日本中で「インターネット元年」といわれた年なんです。パソコンは仕事でもけっこう使っていました。当時の僕はマック派でしたね。それで、会社としてホームページを作ろうということになりまして。
ーーー そこでウインドウズ95が酒蔵の業務に繋がるんですね!
そう。ホームページを作ることになって、消費者参加型イベントもホームページに載せようと。新しモノ好きなんですね(笑)。会社紹介や商品紹介は当然で、そういった企画もあったほうがいいよねと。
そこで田植え・稲刈りのイベントをやることになりました。蔵の隣にある田んぼで皆でお米を作って、草取りをして、稲刈りして、ラベルの名前を決めて。今ではよくある企画かもしれませんが、法律が変わったことでこれができたんです。
「あなたの酒をつくりませんか?」という企画名で募集したところ、新聞で紹介されました。「酒蔵がホームページをスタートした」って。
ーーー 当時は「スタートした」だけで記事になった。
新聞に載ったら突然メールがいっぱい来て、70人程の参加者がメールで集まったんですよ。ものすごくびっくり! 載った瞬間、いきなり3000アクセスでした。で、翌年の平成8年から米作りのイベントがスタートします。今年で23年目になります。
“嫁入り道具” に「夏子の酒」
ーーー 法改正やネット環境の充実が、泉橋酒造を「栽培醸造蔵」にするキッカケになったのですね。
実はもうひとつあって。平成6年に和久井映見さん主演の『夏子の酒』というドラマが放映されていました。それを大阪時代に観ていた。
ーーー マンガが原作となった酒蔵の物語。それがどう関係するのですか?
その翌年。蔵に戻ってきた年に結婚したのですが、その時に嫁さんが『夏子の酒』全巻を、嫁入り道具として持ってきた(笑)。嫁さんがどれだけ興味を持っていたのか話したことがありませんが、マンガは読んでいたようです(※ 奥様のコメントは後ろへ)。
マンガの中には農家さんとのやりとりが、特に「農薬とお金」の問題についてかなりシビアな会話がたくさん載っているんですね! ドラマではあまりなかったんですが。だからこれは「夏子の米」だと思うんですけどね(笑)。
ーーー 地元農家が酒米栽培に協力していく過程が、マンガでは詳細に表現されている。
酒蔵が酒米作りを頼むという時に、農家さんたちが拒絶反応を起こす。そこを夏子さんの持ち前のキャラクターで何とかしていくという話なんですよ。
ーーー 同じことを橋場さんもされてきました。しかしマンガの世界ではないですし、そこまでの拒絶反応が現実にあったのでしょうか!?
消防団の先輩(伊波氏)に相談したのですが、最初は断られましたよ。
※ 奥様のコメントはこちら
当時、確か結婚することはもう決めていた頃だと思います。「酒蔵!? 絶対大変だからやめなよ!」と言われることもありました(笑)。
そんな時、会社の先輩が「これ、読みなよ〜」と言って勧めてくれたのが『夏子の酒』でした。読んでみて「ああ、杜氏さんてこんな感じなのかなぁ」なんて考えていましたね。もともとお酒は大好きで、『いづみ橋』も飲んでいたんです。
結婚した頃は酒友館もまだありませんでしたが、蔵に直接来られるお客様への販売や、広報の仕事が(酒蔵の中の)”自分の場所” となっていきました。
蔵元の「本気」が農家に伝わった
ーーー なぜ協力してもらえることになったのですか?
後からわかったんですが、親父から「頼むよ」と言われていたそうなんです(笑)。実は伊波さんは親父の後輩だった。泉橋酒造だけで作ったのではちょびっとですから、仕込み1本分程度。全然「酒造りは米作りから」ではない。自然の流れで、農家さんにお願いをしました。で、平成9年に「さがみ酒米研究会」の前身となるグループができたんです。
ーーー 実は先代からの働きかけがあった。とはいえ、最初から複数の農家さんに協力を得られるとは、逆にマンガのように順調すぎる気が・・・
グループ発足前年に泉橋酒造が田植え・稲刈りのイベントをやっているのを見ていたんじゃないかな。実際はわからないけど、僕はそれで「本気」が伝わったと勝手に思っているんです。
ーーー そこは本気度が伝わらないと難しい?
うーん。聞いたことがないのでわからないけど、OKが出るまで若干時間があったので。それで、伊波さんが仲間を集めてくれた。そして平成10年に山田錦と雄町の試験栽培が始まります。
雄町はうちの田んぼでやって、山田錦は伊波さんの田んぼで栽培することに。雄町の草丈が約130cm、山田錦は約120cmだったので10cm低い。農家さんは「丈が低い方いい」ということで、翌年、農家さん全員が山田錦で栽培を始めることになりました。
平成11BYだから、新しい商品ができるのは平成12年です。この頃から地元山田錦の商品が少しずつ始まるんです。
~編集後記~
◆蔵元インタビュー第3回「オール純米蔵への道」は、10月の「泉橋酒造の夏」特集アップ時に掲載します。
◆地元農家さんと手を繋いだ泉橋酒造。次に目指すは「オール純米酒」! しかし、当時から既に造っていた精米歩合「80%」のお酒は捨てがたい(この時代、80%のお酒は税法上「純米酒」を名乗れませんでした)。そんな時、またもや法改正が!
「アル添酒」製造からの脱却。営業は「我慢」。そして栽培醸造蔵としてはやっぱり欲しい「精米機」。でも高い!! そんな状況を救った「あるお酒」とは!? 時代は焼酎ブームを経てどこへ向かうのか。
◆いよいよ今年も本格始動した「さがみ酒米研究会」の皆さんによる圃場巡回の様子なども「泉橋酒造の夏」内でご紹介します!