【蔵元インタビュー】泉橋酒造 橋場 友一さん 第1回「始まり」H30.5.27UP

「酒造りは米作りから」のコンセプトで知られる神奈川県海老名市の泉橋酒造。なぜ米作りからやらなければならないのか。その先に何を見ているのか。この地で農家と酒蔵が一体となって造られる「いづみ橋」について、平成30年(2018年)春から31年(2019年)冬までの1年を追いかけて参ります。

 

春夏秋冬の季節ごとに蔵人さんに農作業や酒造りについてのインタビューを実施。また六代目蔵元・橋場友一さんへの「蔵元インタビュー」は一足先に、今回よりスタートします! 

 

◆蔵元インタビューの掲載予定

 

【第1回】「始まり」2018.5.27UP

 

【第2回】「栽培醸造蔵への道」2018.7.28UP

 

【第3回】「オール純米酒への道」2018.10.7UP

 

【第4回】「山田錦と楽風舞」2019.1.30UP

 

【第5回】「泉橋酒造のこれから」 2019.6.29UP

 


泉橋酒造 -いずみばししゅぞう- 

安政4年(1857年)創業。

 

◆六代目蔵元の橋場 友一(はしば ゆういち)さんは昭和43年(1968年)生まれ。大学卒業後、証券会社に入社し大阪にて3年間勤める。阪神大震災を機に「若いうちにやるべきことをやらなければ!」と蔵に戻り、泉橋酒造を「栽培醸造蔵」「オール純米蔵」とするなど、蔵の経営方針に大きな変革をもたらす。

 

 ◆現在では多くの酒を地元栽培の米で醸しており、その味わいは食事と共に楽しむのがオススメ。直営レストラン「蔵元佳肴 いづみ橋」では蔵の酒にぴったりの料理を季節の食材を合わせてコースで楽しめる。

【酒蔵 & 酒友館(販売施設)】

神奈川県海老名市下今泉5-5-1

TEL:046-231-1338

http://izumibashi.com/

 

【蔵元佳肴 いづみ橋(レストラン)】

海老名市扇町12-33 フィールズ三幸 1階

TEL:046-240-9703 

http://izumibashi.com/kakou/

橋場友一さん:泉橋酒造六代目蔵元


受け継がれていた農のDNA

 

ここ海老名では2200年以上前から農業が行われていたことがわかっています。当然、日本としてはもっと前から。この長くて大きな流れの中で、たまたま泉橋酒造が160年前に地元の農業を背景に酒蔵を始めたに過ぎないんですよ。

 

――― 「酒蔵が米作りを始めた」のではなく、ずっとそこにあった農の文化が酒蔵を生み出した。

 

そのことに最近気づいた、というか考え方が変わった。「大きな流れの中で、たまたま」うちが農業にもう一度戻ったんだと。

 

戦前は間違いなく地元の農業と一体でしたが、戦後の農地解放と食糧管理法により酒造りと農業は完全に分離されてしまいました。それが元に戻っただけのことなんです。

 

だからうちがやるべきことは、脈々と続いてきた日本の農業を守ること。この田んぼを守ることが泉橋の仕事だと思っています。それが「今」の考え方です。

 

――― 地域の農家を巻き込んで、共に酒米作りをしているのもそういう考えで?

 

今は7人の農家さんと共に、二人三脚でやっています。一生懸命にやってくれて、その7人が作る山田錦は、生産する34府県中20番目の生産量にまでなりました(平成29年度)。

 

ただ、それも個々の農家さんがすごいだけではないんです。実は、地元の “農家=農業” の中にそういったDNAが編み込まれていて、それがたまたま「酒米を作って酒にしよう」となっただけ。

 

――― 皆さんはもともと「挑戦したい」という “農家としての遺伝子” を持っていた。だから偶然「この地に何でも作れるすごい農家がいた」のではなく、必然的に今の状況になったと。

 

先ほど、これが「今」の考え方だとおっしゃいましたが、どういうことでしょうか。

 

すごく恥ずかしいんですけど、そうなる前の自分がいたんです。


「何か新しいことを!」という危機感だけがあった

 

大学を卒業して証券会社に入り、大阪に勤務して3年経った頃にあったのが、阪神大震災。その時、「若いうちにやるべきことをやらないと」と思いました。

 

――― そして平成7年に蔵に戻ったのですね。次代の蔵元さんとして立派だと思いますが・・・

 

しかしそのときは「酒は米からできている」なんて感覚は全く持ち合わせていません。もともと橋場家は食米を作る田んぼを持っていて、昔からそれを手伝わされていたんです。

 

親も忙しいから除草剤も撒けてなかったりして、草がひどい。「マジか!?」みたいな。全然いい思い出がない(笑)。

 

とはいえ戻って来たので、酒蔵を何とかしなければいけない。酒の業界自体もずっと右肩下がりで常に蔵が減っていくような状態でした。さらに弱小神奈川県ですから、極めて大変。酒蔵としてのブランドがない。例えば新潟だったら「新潟の酒蔵です」って東京に行けば営業になるかもしれないけど、そういったものが何にもないわけです。

 

「やばい。何か新しいことをやらなければいけない!」という危機感だけがありました。

 

――― 具体的にはどのような状況だったのでしょう。

 

当時はお酒のディスカウントショップが出てきたり、コンビニ(による酒販売)がどんどん始まっていました。

 

「昔ながらの酒屋さん」の業態がどんどん替わっていく。辞める人たち、そのまま続ける人たち、コンビニに替わる人たち、専門店に替わる人たち・・・ただ全体としては数が減っていく時代でした。そういう変化の時に戻ったので「やばい」と。

 

酒販業界とお酒の流通が変わりすぎて、このままいくと完全に立つ場所がなくなる。まずい状態でした。


~編集後記~

 

◆蔵元インタビュー第2回「栽培醸造蔵への道」は、7月の泉橋酒造の春 特集アップ時に掲載します。

 

◆当時「危機感」しか持っていなかった橋場さんがどのようにして「栽培醸造蔵」を目指すに至ったのか!? そこには戦前から続いた「食糧管理法」の改正、社会現象にもなった「ウインドウズ95」の発売、そしてマンガとドラマで人気を博した名作「夏子の酒」の存在がありました。

 

それぞれ栽培醸造蔵に関係あるような、ないような・・・ウインドウズ95? 嫁入り道具に夏子の酒!? 

 

◆また、泉橋酒造の酒造りの根幹である「さがみ酒米研究会」の発足についても詳細を伺いました。現在、研究会の会長を務める農家・池上さん宅での播種作業などの様子も合わせてご覧ください!